「普段話しているのと同じような感じで書ければいいのに…」そう思ったことはありませんか?確かに書くにしても、話すにしても、その中身は頭から出てくることに変わりありません。
あれこれ考えなくとも必要なことが、口をついで言葉に出てくるものですから、話し言葉のようにスラスラ文章も書けそうなものですよね。ところが、いざ書こうとすると、うってかわって何も言葉が出ない場合が多い…
どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?実際に話し言葉と文章にはどんな違いがあるのでしょうか見ていきましょう。
話すように書けないのは何故なのか?
本屋に行けば、様々な雑誌が売られていますよね。これらの雑誌の多くには対談などのコラムが掲載されています。対談と言うのは一人でやるものではありません。二人では対談で三人の場合は鼎談という場合もありますし、座談会ということもあります。いずれの形式でも、その場にいる人たちが、テーマにされた話題についてお互いに見解を述べあったり、会話をした記録です。
これらの記録を後々確認してみると、ごく自然に感じる話し言葉で表現されており、当然読んでいる人は対談者がこのように喋ったのだと思うことでしょう。ただ、本当にそうか?というとちょっと違うのです。対談の話はまず、録音されます。これを活字に起こして編集するのですが、話の順序はそのままにすることはあっても、言葉自体は書き直すことがよくあります。
喋りの表現と言うのは、そのままでは活字になりません。聞いた時には何も問題ないように思えたのに話したことをそのままの文章で読んでみると違和感のある流れになっていることは良くあります。これがまず第一の「話せるけど書けない」の謎です。正しくは「話し言葉であれば許容されるのに、文章では誤りになる」ということです。
「話す」のは動画の一コマ、「書く」は静止画
映画は1秒間に24コマの静止画を連続で流すことで動いているように見せていると言います。よりなめらかにする場合はそれより多いし(テレビは30コマ)、アニメなどは24コマよりグッと少なくすることが多いようです。話すということはこの映画などのフィルムと似ています。それに対して書くというのは静止画を印刷した写真と言えます。話していることを文章にして読むという行動は、映画で言うなら撮影フィルムを生で見る感覚に近いです。つまり、絡んでくるのは時間と言うことですね。短時間で大量の写真を写す映画と、同様にたくさんの内容を喋ることは類似しており、両方とも数多くのコマで構成されていて映画の観客や話の聞き手は連続して理解しているので細かいことは気に留めることなく頭で消化していくのです。
このように考えていくと、話す言葉と書く言葉の違いの漠然としたものがクリアになっていきます。
英語に文体の違いはない
英語でも少しの差異はありますが、話す言葉と書く言葉にほとんど違いはありません。俗語など、文章にするには下品とされる表現はもちろんあります。しかし文体においては、話すことも、書くことも本質的には変わりはありません。一人称はあくまで「I」です。
日本語の場合は時と場所と場合で様々変わっていきます。日本のように季語などの常套句で入るということもほとんどありません。家で自分の息子に向かっては「お父さんは」という一人称であるかもしれないし、息子の友達には「おじさん」となるでしょう。
その他にも 「俺は」「僕は」「自分は」など様々使い分けます。気の置けない仲で「私は」と使い出したらからかっているようにとられるでしょう。英語はどのような状況であれ「I」は「I」であり、「個」が揺るがないものとして確立されています。しかし日本人にとっての「個」はこのように相手との関係性でどうにでも変わってしまうのです。
これについては本当に一長一短ですよね。繊細な日本語だからこそあなたは文章に惹かれたのかも知れません。しかし繊細ゆえに日本語文章に悩む…そう考えるとキリがなくなってしまいます。話し言葉と書き言葉が一緒の英語をうらやましがっても仕方が無いので、日本語らしくどう表現していくかを磨いていくことが大切です。
英語が論理的な言語である理由
留守電などのメッセージを思い出して下さい。この留守電にメッセージを入れにくいのは誰もが体感するところですが、英語では比較的やりやすいと言われています。英語はSVOなど基本的な骨格を持っており、必要なことを述べた上で後ろへ後ろへ説明していけるからです。日本語で「昨日、僕は父を連れて、帰宅ラッシュで混雑している上野駅に名古屋に住む叔父を迎えに行ってきました」ということを英語で喋ると次のような語順になります。
「昨日、私は 行ってきました 上野駅に ラッシュアワーで混雑している 連れて父を 迎える為に 叔父を 名古屋に住んでいる」
英語の場合はそれほど話す内容を考えることなく順次継ぎ足しで話していくことができます。「私は 行ってきました」とはじまって、どこへ?だれと?なにしに? と繋ぐことができます。
五文型として文の骨が決まっているので、このようなことができます。
しかし、日本語は一番肝心な「行ってきました」は最後に置くことになります。否定語などの強烈に肝心なことさえも最後になります。これは日本の特有の「言わずもがな」「以心伝心」「察し」「一を聞いて十を知れ」「言わぬが華」「正しいことは口半分」「みなまで言うな」など、言いづらい事、白黒ハッキリしてしまうことは言語として出す前に、相手に理解を促すことを求める文化の為に生まれた特徴です。
常にバックグラウンドの違う他者と話さなければならない大陸の文化や狩猟民族だった英語とは違い、島国の農耕民族として常に同じ人と共通の見解を何世代も受け継ぎ続ける、良く言えば日本文化らしい構造になっています。
誰が書いても同じになるのが英語
このように文章の論理骨格をはっきりさせる英語と比べて日本語はほとんどが自由です。英語では主語を省略することは原則的には許されません。高校で古文の勉強をしたことがある人は、登場人物がたくさん現れるにも関わらず一切主語が無くて誰の動作か判別するのに苦労した人もいるでしょう。
英語圏の国語の作文の授業では、まずは書きあがった作文の添削ではなく文法の添削からスタートし、そしてロジックを自然に身につけていきます。日本の国語の作文では「思ったことを素直に書きましょう」など、その文章が文法的にきちんとしているかはみません。どう書いても自由だからです。
ただし、これは悪い点だけではありません。自由であるあまりに書く人によって表現がいくらでも変わるということです。英語は規則がしっかりしているので、誰が書いても同じような文章になってしまいます。良く言えば誤解が無く、悪く言えばそっけないのです。日本語の自由度をいかして自分にしか表現できない言葉を紡ぎだして語ることが出来ます。
まとめ
話すように書けない理由が何となくお分かりになったと思います。こう言うと身も蓋もないのですが「話し言葉と文章は明確に違う」から同じようにいかない訳です(苦笑)
ただ、この難しさがあるからこそ多彩な文章表現が可能になる訳で文章の魅力の根幹にあたる部分だと思います。話すように書くことは難しくても、話すくらい自由に書くことは出来るようになります。その方法はシンプル、とにかく書くことに慣れれば良いのです。そのように考えて日々文章を書き続けて頂ければと思います。